―――失った温もりはもう一度取り戻すことができますか
「弾けるよ。」と、私は呟いたけれども
抱きしめられた温もりはまだ遠い存在に思えた。
まるで、これが夢のような感覚で。
私は彼の腕の中にいながら、胸に自分の額をくっつけてうつむいた。
伊織くんはただじっとしていたけれど、私の態度を気にしていたに違いない。
「どうして、・・・」
私がただ口から漏らすと、伊織くんは顔を傾けて私の顔をのぞき見た。
「どうして、あなたは私を追ってきてくれるの??」
今度は顔をあげて私が彼に言うと、伊織くんは平然として言った。
「俺の人生に、あなたが必要だから。俺が、あなたの隣にいたいから。」
彼は私の眼を見ながら貫くように見た。
でも、今の私の荒んだ心には届く言葉ではなかった。
「でも、私がいなくても伊織くんは歌ってこれたじゃない。」
この4カ月を思い出しながら私は、きつい一言を彼に投げつけた。
でも、彼はひるまずに、私きつく抱きしめながら辛そうな顔をした。
「今は違うんだ。」
「違わない。私が消えても伊織くんは気付かなかった。」
私は、両腕で力いっぱい彼を突き放そうと彼の胸に手を添えて押した。でも、彼は「そのあとの俺を美羽さんは知らないじゃないか。どんなに気持ちを込めようと思っても伝える人がいない。それじゃ意味がない。」と、辛い顔をしながら、私の肩に顔をうずめながら答えていた。
「でも、でも私が隣にいても伊織くんはきっと、自分の音楽を優先する。
『あの時』約束したから、また音楽を優先して私は一人になる。
どこをどうやってみれば、私は音楽より優先されてると思えばいいの??
さみしい思いをさせるなら、『隣にいたい』とか言わないでっ!!」
私は今度こそ彼を突き放し、いろんな意味を込めて彼を睨んだ。
本当の気持ちをぶつけなければいけない。
私より、あなたは若い。
私のような女一人に固執せずに自由に飛びまわれる羽がある。
けれど、伊織くんは私の言葉とは裏腹にじっと私を見つめて言った。
「・・・俺は美羽さんのためなら音楽を捨てたって構わない。」
はっきりと。
『音楽を捨てる』と。
どうしてこの人はこんなことが言えるの??
今まで彼が大事にしてきた音楽を私が奪うの??
私にどうしろと言いたいのよ。
頭の中がごちゃごちゃになってきて、私は茫然として彼を見た。
何で、ばかりが頭の中を廻っていた。
「そう思うくらいに、あなたが大切で、あなたがいないとおれの音楽は無意味で、天秤に掛けようにも、もう答えは決まっている。」
まっすぐの視線を私に投げかける。
私が好きなまっすぐの瞳。
「音楽は手段。・・・ただそれだけ。」
「わ、わた・・・・・・。」
何かを言いかけたその瞬間、急に伊織くんは力なくその場に座り込んだ。
「・・・・・・正直もう駄目なんだ。」
「え?」
座り込んだ伊織くんは顔をうつむかせて、くぐもった声で言った。
「今まで、あなたを想って弾いてきたピアノも、作ってきた曲も、何もかも・・・・・。」
俯かせた顔はどのような表情をしていたのか、私にはわからなかったけど、大好きなものを取り上げられたようなその声は、とても弱弱しく聞こえて、
「弾こうとすれば手が止まって動かなくなるし、作ろうと思えば頭は真っ白で曲も浮かんで来ない。」
音楽家として失格だろ・・・・・・。
伸ばされた手をつかんでみたけれど、その手は僅かに震えていて、私はただ彼に目線を合わせて顔をのぞかせた。
私が好きな瞳は傷ついていて、力なく見つめられて、私がこの瞳を傷つけたんだと気がついたのは、直輝のアパートに帰ってからだった。
愛しい君よ 泣かないでくれ
僕がその羽を守ってあげるから
煌く光 僕を照らしてくれ
心の奥底が穏やかになるから
傷ついた瞳の奥
暗い過去を抜け出して
ともに手を取り歩もうよ
道の先は希望が照らしているだろう?
気がつけば私はいつの間にか直樹のアパートに帰ってきていて、直輝は日本から持ってきたというIORの曲を流していた。
その曲は私と伊織くんが出会ってからしばらくして出たシングルのカップリング曲だった。とても穏やかなバラードで、天使を暗闇から救い出して、明るい光溢れる道をともに歩いて行くという物語風のプロモーションビデオも付いていた。
でも、プロモの俳優は伊織くん自身じゃなくて、誰か有名な若手の俳優だった。
ゆったりとした曲調だけれど、その詩は今の私には胸の奥に響いていた。
「あれ、美羽帰ってきたのか?」
奥の部屋にいたのであろう直輝が私の帰宅に気が付き、玄関にいる私に歩み寄ってきた。すると、直輝は私の顔を見るなり一瞬眉間にしわを寄せて怪訝な顔をして私を見たのだ。
「何か、あった??」
「え?」
「いや、・・・泣いてるから。」
掌に零れ落ちた雫に気がつかずにいた私に、直輝はただ見守るしかなかったのかもしれない。
雫をしばらく眺めていた私はようやく思考を取り戻すと考えることができるようになった。
何で私は気付かなかったんだろう。
この曲を聴いたとき、私はずっと彼の「守ってあげるから」という言葉が、苦い過去のことだとばかり思っていた。
でも本当はそうじゃなくて、彼が私と違う世界で生きていることを考えると、一般世界で生きている私というのはちっぽけな存在だから、私がただ傷つかないようにって、影で彼が必死で守っていてくれてることに気がつかないで、のほほんと生きていて。
それに気がつく前は、彼が私を裏切ったんだと思って自分を正当化して、殻に閉じこもってただ、泣いてて。
自分はなんて馬鹿なんだろうって。
彼が限界になるまで追い詰めておいて、信じられないからって突き放して。
やっと彼の心の声に気がついた時にはもう、彼は目の前にいなくて。
私、本当に馬鹿。
ごめんねの一言も言わないで、ありがとうも言わないで、
彼を一人にしてしまった。