『俺を買わない?』
私は結局彼の思惑にのったただの都合の良い女―――?
朝、目の前の彼を見て一瞬心臓が飛び跳ねた。
けれども、状況を思い出して見れば、私はしっかりとパジャマを着ているし、彼もしっかり服を着ている。ちょうど、弟が忘れていったジャージを・・・。
私は寝起きで時計を確認しながら、予定よりもだいぶん早く起きてしまった事に気が付いた。
その時間を利用して、初めて彼の顔をまじまじと近くで見つめていたのかもしれない。
(睫毛長ぁい・・・)
興味本位でその睫毛に触ろうとして私は手を動かすと、彼が一瞬ピクリと動いた。
「美羽・・・」
寝言?おい、呼び捨てしなかったかいこら、と思いつつも、私は野望を果さずして、ベットから起き上がった。
・・・・・・・・・が、起き上がろうとしても、外からの重力がかけられておき上がる事ができない。
むむ。
私は、自分の体を見下ろして確認すると、そこには彼の左腕がしっかりと私の腰に巻きつけてあったのだ。ご丁寧に右腕は私の頭の下に敷いてあったらしき痕跡。
うーんと唸りながら考えて見ると、私は昨日の夜、途中からパニックになって・・・・それから・・・・
気絶したんだろう!!
そう、自分に言い聞かせて遠慮無しに彼の腕を離すと仕事に行くためにシャワーを浴びて、着替えをした。
浴室に行くときに、ゴンっと豪快な音がした・・・・用な気がしたけど気にしないでおこう。
浴室から出ると、目を覚ましたのか彼は目を擦りながら、冷蔵庫の方へスタスタと歩いていた。
「お、おはよう・・・・」
「ふぉふぁよう・・・・ございます・・・・。」
まだ眠そうな朝の挨拶(欠伸つき)が返って来て、私は彼の行動を目で追った。
冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを出すと、そのままボトルに口を持っていき・・・そうになったが、思いなおして食器棚からコップを出して水を注いだ。
水を飲んでから一息つくと、ようやくきちんと目が開いて私の方を見た。
「・・・?今日、仕事・・・?」
「うん、今日月曜日だよ・・・?」
私が一言言うと、彼は何を思ったのか一瞬だけ動きを止めて私を見つめ返すと、強張った顔が苦笑に変わって「そっか」と一言と返してきた。
私この時忘れていた。
今日は彼が来て3日目だってこと。
私と彼が現実へ戻ってしまう時間だって言う事。
朝食を食べ終えて私はすばやく準備をし終えると、身の回りの確認をして、彼に今日の予定を聞いた。たぶん聞いても、今日は彼1人だし、お金・・・もないし、する事はないんだろうけど。
「伊織くんは今日は何する?私は仕事だから帰りは6時くらいなんだけど。」
「ん〜?今日は・・・・そうだ。紙と書くものある?」
「紙と書くもの?・・・私の部屋にあると思うけど。」
「じゃ、それ借りて俺も仕事しとく。」
「そう?お金少し置いていくから、これでお昼買ってね?・・・じゃぁ、行ってきます。」
「いってらっしゃい。」
伊織は美羽を送り出すと、言われた通り紙とシャーペンを美羽の部屋から取り出してきて、仕事に取りかかった。
――――――――いってらっしゃい。
その言葉を聞いたのは本当に久しぶりだった。その言葉を言われたからか、彼から言われたからか、美羽の心の中は温かいと感じた。
「美羽。おっはよ。」
「あ、おはよぉ。」
会社に着いて一番に声をかけられたのは、会社の同期の藤崎八重だった。
「今日は珍しく早いじゃなぁい、どうかしたの?」
覗きこまれながら言われると私は頭の中に一瞬、彼を思い浮かべた。しかし、私はそれを振りきって、八重に向かって笑いながら言葉を続けた。
「今日は早く目が覚めちゃったの。」
「ふ〜ん・・・・の割に、妙に嬉しそうな顔してるし、」
そう言葉を途切れさせて八重は私の首元に鼻を寄せてクンクンと犬のように匂いを嗅いだ。
「男物の香水の匂いがかすかにする。しかも・・・高級めのやつだわ。」
八重が私の目を見ながら「誰なの?」と詮索するように見つめてきて、私はとっさに会社の方へ向かって足早になり、「あとでね」と冷や汗をたらしながら入り口へ入っていった。
仕事中に何回も何回も八重の攻撃をくらいながら私はそれとなくあしらい続けた。
「ねぇ、一体誰のものなの?」
「さ、さぁ?電車でついたんじゃないの?」
「そんな一瞬の出来事が、2、3時間も染み付いたままなのかしら?」
「うっ・・・」
「しかも、首よ、首。こ〜んなヤラシイところについてるなんて、よっぽど妖しいじゃない。」
「・・・・っ!!!」
八重の指に突き刺された部分を掌で覆って、隣に平然と立つ八重を睨んだ。
八重は私のの反応を見て何かを確信したのか、誇らしげに笑んで見せて「白状しちゃいなよ」と目で語っていた。
「北条さん、これ今日の分です。」
「ありがとう。」
「さぁ、どうなの?」
隙も逃さない八重の言葉に、ビクビクした。
・・・怖いよ。その言葉が口から零れるかと思って必死に口を閉ざした。
「どうかしたんですか?」
「あなたには関係のないことよ。仕事に戻りなさい。」
八重のちょっぴり厳しい言葉に、後輩も素直にしたがって、私を少し見てお辞儀をすると、潔く去っていく後姿を私は潤んだ目で追って、もう助けは来ないのかと半ば諦めを起こした。
「・・・八重ちゃん、お昼休みじゃだめ?」
「ちゃんと話してくれるの?」
「うっ・・・所々、不都合があるから、はしょるけど・・・」
私は八重の威圧に圧倒されて語尾がだんだんと小さくなっていく。
こんなはずじゃなかったのに・・・。
それに納得したのか、八重は「わかった。」と納得してスタスタと自分のデスクに戻っていった。
その後姿がしてやったり・・・と笑っていたように見えたのは、
私の気のせい・・・だよね?