ずっとずっと傍にいて。
つぶれるほどに、きつくきつく抱きしめて。
涙が溢れて、前が見えない。
その日は月に何度かの会社がもうける定期的な休日だった。
その日は偶然、本当に偶然、街の歩道をショウウィンドウに沿って歩いていただけ。何の予感もなく、ただ思うがままに。だけど、何かに引きつけられるかのように。
私は出会ってしまったのだ。地位も名誉も、名前さえ解らない。ただの男と女として。
「お姉さん、俺買わない?」
私に声をかけてきた彼は、私とあまり年が変わらなさそうで、誰にも気づかれず、ビル角のちょっとした階段に1人で座っていた。
私が気が付いて目が合った瞬間、「あぁ、最後だな」って思った。人を引きつけるような笑顔を向けて、声をかけられたときは、腹の奥底がズガンとバズーカ砲で撃たれたみたいに響いた。彼の目に酔いしれた私だけど、失われつつある理性を振り絞って、頭の中で鳴り響く警告を私は口にする。
「どうして?」
どうして私なのか、どうして貴方を買わなくちゃいけないのか、どうしてこんなに胸がどきどきするのか。その言葉にはすべてが含まれていた。
「お金が無いから、家に帰れなくて。」
冬になりかけの寒空の下、私は理由を尋ねるべく彼の前に立って話を聞いた。
私がこの場にいる理由?
そんなの無いに決まっている。けれど、彼を放っておく事が出来ないのが正当なのかもしれない。
「即、金を手に入れるっていったら体売るしか思いつかなくて、・・・でもそれなりに自分の好みがあるから、お姉さんだったら・・・・・・何かよさそう。」
よさそう・・・・その言葉を聞いて私は「ああ」と頭に手を当てた。彼はというと、人差し指の背を口に当ててじっと私を見極めている。
「・・・・・私、給料日前だから、それまでのお金しか無いの。」
私が残念そうに彼に告げると、
「はぁ、やっぱり・・・・。そうだよなぁ、月初めだし。」
目の前で項垂れるようにして力無くその場に座り込む彼はただ頭を抱えて唸っていた。そして、とりあえず、おさまってきた私の理性も取り戻し、胸の動悸を押さえていると突如、その場に大きな腹の虫の音が鳴り響いた。
その主は私の前で座っている彼のものだとすぐにわかった。
「もしかして、お腹すいてる?」
私が彼に視線を合わせるようにして座って尋ねると、彼ははっとして私に笑みを見せて言った。
「ああ、うん。用が済んだ後に携帯忘れたのに気が付いて、それに伴って財布も一緒に・・・・。まぁ、今日1日誰か捕まえて過ごせば良いかなって。」
楽天的に言う彼は、笑っているけれども内心ヒヤヒヤなのかもしれない。私も彼をじっと見て観察した。明かに幼さは残るけれども、私の友達がいたら――――イケメン。そう呼ぶに違いない。
「あなた、何歳?」
「19。もうすぐ誕生日だから20か。お姉さんは?」
「お姉さんって呼ばれるほど、歳変わらないよ?21だもん。」
「へぇ、でもメチャクチャ働き者に見える。会社では・・・・・新人?」
「そうでもないの。もともとバイトで・・・・って上司に知り合いがいるから口利きでいれてもらったんだけど、後はそうね・・・・自分の頑張りもあるのかなぁ?」
冗談めいたように私が言うと、彼は「ふーん。」と興味なさ気に答えながらも、しっかりとその目は私の持ち物(仕事の資料)に向いていた。・・・・と、再度彼の腹の虫が聞こえてきて、彼はちょっと照れくさそうにはにかんで見せた。
不思議だった。
人と話す事が苦手の私が、まともに人と話せていた。そして何より、彼といる時間がもっと欲しかった。
「んと、じゃぁ、もし良かったら、私のうちでご飯食べる?家に来たらとまっても良いし・・・。お金無いならホテル、泊まれないでしょ?」
「いいの?」
「・・・・うん」
この一言は私にとって多大な勇気を労していた。私は人生で初めて男の子を自分の領域に誘っている。今まで恋愛経験をしてきたって自慢気に話せるほど場数を踏んでいるわけではない。むしろ、これが初恋とも呼べるに等しい2度目の恋のようで、彼は私の心を鷲掴む存在だった。
彼は私の意外な言葉を聞いて嬉しそうに、そして優しい笑みを浮べた。
私たちは立ち上がって歩き出す。どちらからともなく自然に手を繋ぎ、寒空の雑踏の中へ身を投げた。
帰り道の途中、私は手を繋いだままの彼に言って、下町の匂いがまだ残っている商店街に来た。
その通りは、夕方の買い物客で賑わっていて所狭しと人がごった返している。
私はその中の数件に立ち寄って、夕飯の買い物をした。
「お姉さん、俺飢え死にしそう。」
後ろで聞こえたのは、お昼私と出会ってお昼ご飯を抜いている彼。私は振りかえって彼をなだめるように「もうすぐだから」と急かした。
「美羽ちゃ〜ん、今日は彼氏連れ?これ、おまけしとくよ」
「ありがとう!!いつも、大(まさる)さん優しい!!」
「はははっ、上手いねぇ。いつもありがとうねぇ。」
そんな会話が何件かあって、通りを抜けたらもう、マンションだった。
「私んちここ。」
「へぇ、綺麗じゃん。」
私が指し示したマンションを彼が見上げて呟いた。白を基調とした完全オートロックのマンション。私は管理人さんに挨拶をして、彼を部屋に上げた。
「1DKなのに・・・・ものが少ない?」
私は部屋に帰るとすぐに彼のための食事を作り始めた。彼はきょろきょろと部屋を見渡しながら私はただ質問に答えるだけだった。
「まぁ、1日この部屋で何かするって事が少ないからね〜。寝に帰ってくるには丁度良いの。」
「あぁ、だからテレビもないとか?休みの日は?」
「そうね、見る暇がないって言った方が良いのかな?休みは寝てる。音楽とかファッションは街をぶらぶらすれば勝手に入ってくるし。」
「雑誌は見ないの?」
「ああ、うん。スクープとか信用しないようにしてるの。私の性格って、・・・・・単純だって、言われた、し。」
私はこの一瞬、忌まわしき過去にあった1人の人物を思い出した。
私はその間、何やら手が止まっていたらしく、後ろで私を見ていた彼が私に声をかけたらしいが、私は記憶のないまま食事をしてしまった。
「ミウさん?」
「・・・・え?」
覗きこまれた顔に私は我を戻して、彼の顔を見た。何度見ても整った顔だった。
「や、何でもない。そうだ、お姉さん、ミウさんって名前だよね。」
「うん、そうよ。・・・もしかして、さっきの買い物の時?」
「そうそう。どう言う字?」
「美、羽・・・こう言う字。」
私は彼の手のひらを取って、指で美しい羽という漢字を書いて見せた。そして、書き終わると食後の紅茶の準備をし始めた。
「美羽?やっぱり名前も綺麗だね。俺は伊織。」
「イオリくん?」
私は彼が言った名前の音を口にすると、彼もまた、私の手を取って指で手のひらに何かを書いた。
「うん、伊集院の伊に、機織(はたおり)の織る。」
「伊織。ステキね。はい、紅茶。」
そういいながら紅茶を運ぶが、不本意ながらその手は震えていた。
「美羽さん、触っていい?」
「え?」
テーブルの足を挟んだ隣にいた彼は、いつのまにか私の真横に座っていて、ゆっくりと私の手に触れた。私の手が彼に触れられた部分がひどく熱を帯びると共に、「ある事」が原因で恐怖に反応する。
「さっきから、ずっと美羽さんの手が震えてるんだけど。俺が触ってから尚更。」
彼に言われた私は、自分の手に視線を落とした。
本当にブルブル震えていた。原因は知っていた。
私が恋愛の場数を踏んでいない理由――――元カレからの暴力。
人に近づこうとすると、怖くなる、発作的なもの。当時は考えられないくらいに人間不審に陥って、精神科に通いつめてやっとここまで治った。
「対人恐怖症なの。元カレからね、暴力をふるわれて、すぐに別れちゃったんだけど・・・・。伊織くんと話していた時はそうでもなかったんだけど、さっき・・・・思い出しちゃって。でも、大丈夫。」
「でも、今にも泣きそうな目。」
「・・・・・っ」
私は彼に指摘された言葉を黙っているしかなかった。見上げると、そこには彼がいる事はわかる。
見つめ合った目が、何かに引きつけられるかのように外せない。
覗きこまれた顔が心配そうに私を見て、向き合った体は自然とそしてゆっくりと彼の腕の中に引きこまれる。気が付けば、私は彼の長い足の膝が立てられた間に座らされていた。
背中に回された手の片方は私の後頭部に回って、私の頭を彼の肩の部分に埋めさせた。
抱きしめられる私。
とても、体温が心地よかった。
「年上なのに・・・・・」
「ん?」
埋めた彼の肩から微かながらに声にすると、彼はゆっくりと、そして優しく私の話を聞いた。
「私、年上なのに、何か伊織くんの方がお兄さんみたい。」
私は微かに笑って、彼の背中に腕を回した。
彼に抱きしめられながら、私の震えが止まった頃。
「そう言えば、携帯が無いって言ったよね?どうして、携帯が無いと帰れないの?」
私はまだ抱きしめられたまま、思い出したように彼に尋ねると、彼は私の顔を見て困ったかのように唸りながら少し考えていた。
「え・・・っと、用が終わり次第、電話するはずだったんだ。 だから、財布使う場所も無いなぁと思って置いて来たんだ。」
「ふーん。もしかして、伊織くんってどっかの会社のご子息的身分?」
「ご子息じゃないよ。」
「えー?でも、立ち振る舞いとか、着てるこの服とか、・・・・香水の匂いだって、すごく高級感を感じるよ?」
そういうと、彼は「はは」と苦笑いをして天井を見上げた。
本当にそう思った。
着てる服はGパンとシャツとジャケットだけ(今は加湿器が効いてて脱いでる)だけど、雰囲気が違った。街で会ったときも、人目に触れないような場所に座っていたけれど、私には十分目を引いていたし、本当に19なのかと思わせるくらいだった。
「・・・・・・・じゃ、迎えに来るはずだった人の連絡先は?」
「んー。覚えてない。ボタン押すだけだったし。」
「そっかぁ。だったら、お金貸すしか無いんだよね。・・・・私のお給料日、後3日なんだよねぇ。そしたら、本当にお金貸せるから。それまでここに泊まって。あ、でも学校あるよね。」
私は言いながら1人自問自答を繰り返していると、目の前の彼はおかしそうに笑っていた。
「どうして笑うの?」
怪訝そうな顔で私が言うと、彼は急に笑うのを堪えて私を見た。
「いや、何かおかしくて。じゃなくて、嬉しくて。」
「何が?」
「美羽さんの存在が。」
「どこがぁ。」
私は眉間に皺を寄せながら彼に聞いた。
「ん?こうやって抱きしめると、何か妙に落ちつくところとか。・・・前にどっかで会ったみたいだ。」
そう言って、彼は私の顎を右手の親指と人差し指で上へ向かせて顔を向き合わせた。
何をするかと思いきやただじっと熱い視線を送るだけ。
そうして、また2人は沈黙へと落ちていく。
私は慣れないことに赤面して俯きかけた時、
「キスしていい?」
私の唇は彼の言葉と同時に塞がれていた。目の前に広がる彼の顔が私の目の前に闇を落と
していた。
私は驚いて最初は目を開いていたけれど、条件反射で目を閉じた。
ただ触れ合ったものから、だんだんと啄んでいって深くなる、暗闇で感じる彼の柔らかいキス。
「・・・・・んっ」
私の声が重なり合った部分の隙間から漏れて唇が離され、はぁっと息を吐く。
「何か変だ。今日会ったばかりなのに・・・・・」
キスの間をなかなか与えてくれない彼がポツリと呟いた。彼が呟いた言葉の語尾は、私とのキスで小さくなって届かなかった。
このキスは何を意味するのだろう。
このキスは何を予感させるのだろう。
私は判らない。すべてが初めてだから。
これは、恋を予感させているの・・・・・・?