伝えたい事がある。
たった一つの大切な言葉を。
あなただけに伝えたいのに伝えられない、この微妙な距離を
どうやったら埋められるのかをずっと考えている。
本当は知っているの。
あなたは人を睨めつけるような怖い顔をしているのに、影では全然違って
優しいってことを。
私だけが知っているその優しさを、私に与えて欲しい。
そう思った。
――――――Oh, mi Querido!!!
その日は、雨が降っていた。
五月の暑い日だった。
湿気が多くて、誰もがやる気をなくすくらい蒸し暑くて、
制服のシャツは汗で引っ付いて、とてもうざったくて、
体育大会の練習とかに終われていたけれど、結局雨で予定は流れていた。
体操服に着替えたら少しは過ごしやすいとか考えたけど、
それは儚く雨で消えうせてしまうくらい、この日の雨はウザかった。
たった一つを除いては・・・・
この日夏音は先生に頼まれて、学校に遅くまで残っていた。
頼まれごとといっても、体育大会の雑用とかだったりする。
教員用のプリントをコピーしたり、パソコンを打ちなおしたりなど単純作業だった。
「いたいけな生徒をこんな時間まで残すなんて・・・・」
印刷室にボソリと響く夏音の、少し高い声。
静かながらも雨の音はしっかりとこの場所まで聞こえ、夏音は降りしきる雨を睨みつけた。
しかし、先生に頼まれて残っていたのは夏音のみではなく、その横には今にも素行の悪い生徒を前にするとけんかでも起こしかねないと思わせるような顔つき、そしてどこか高貴で綺麗な雰囲気を見せる男子生徒が一人、黙々と作業に励んでいた。
バチン、バチン、バサッ
外の雨音に似合わないようなこの部屋の沈黙。
夏音は外の天気を見るなり、半ばやる気を半減させていた。
だが、この隣の男の子はそんな事を気にしないとでも言うかのように手を進めている。
夏音はそんな姿を見て感心するどころか、尊敬したくなるくらい熱心な仕事振りだった。
そんな彼は、夏音の視線を感じて一瞬視線を上げると、短く息を吐き言った。
「橘さん、余所見してると余計に帰るのが遅くなるから次の資料くれない?」
「あ、ゴメン・・・・」
夏音は少し飛ばしていた魂を引き寄せて、隣の男の子、高遠 暁に謝罪した。
「ま、やる気が半減するのも無理は無いけどな」
何せこの雨だ。 そう、暁は呟いて瞬間外を見やるが、視線はまた資料に落とされた。
夏音は彼のその姿を見て、少し前のことを思い出していた。
2年前中学3年のあの日、彼と出会った日もまた、雨だった。
その日は、今日みたいにジメジメする暑さではなく、少し肌寒い冬から春に変わろうとしていた気候で、肌寒かった。
夏音たちが通っていた中学には、ある一定の期間で全校生徒による清掃活動が行われる。
雨にもかかわらず、外での清掃活動は相変わらず行われていて、前日に休んだ夏音は雨天決行というこの清掃活動の存在を知らないで、学校に復帰したとたん清掃活動のことを知り、なんの準備もせず登校していた。
当然のことながら、外での活動とは知らず薄着での登校。
夏音は清掃活動中、ずっと震えながら作業をしていた。
「夏音、やっぱりなんか着てきた方がいいって、私のジャージ貸すよ?」
「あぁ〜いいのいいの、大丈夫だから」
「とかいいながら、随分震えてるじゃん!!」
親友の里子は、震えながら作業する夏音を見て、気の毒そうに言った。
気丈に振舞いながらも、人間寒いものは寒く、暑い時は暑い。
夏音はさすがに寒さに勝てず、里子に何か上着を貸してくれと頼んだ。
「私、先生に言って何か上着借りてくるから、ちょっとそこで待ってて」
里子はそう、夏音にぴしりと言うと駆け出して先生のところへと向かった。
夏音は里子の後姿を見送り作業に戻ろうかとすると、急に後ろからドンっと人から押されたような重量を感じ振りかえった。
そこにいたのは一人の男子生徒が自分のものだろうと思われるコートを夏音に差し出して、立っていた。
「え?」
急に差し出された見知らぬコートを前に、夏音は拍子ぬけた声で尋ねた。
すると、男子生徒はむすっとした顔で夏音にコートを差し出し夏音を見た。
「着てろよ。昨日まで風邪だったんだろ?ぶり返すとやべぇから着てろよ」
「え、・・・・でも」
最初、夏音はなぜ自分が風邪で休んだのを知っているか問いただしたかったが、差し出されたコートを見ると男子生徒のほうが寒いのではないか、と考える方が先だった。
「俺はいいから。ん」
ズイっと差し出されたコートを前にうろたえる夏音は、どうしようかと迷う前に、男子生徒によって強引にコートを受け取る羽目になった。
その男子生徒はコートを渡すと、友達であろう人たちから呼ばれさっさと自分の持ち場へと帰っていった。
そのあとどうやら先生に上着を借りることが出来ず、落ちこんだ様子で里子が帰って来て夏音の前に立ち、借りられなかった事を言うと夏音の手に持っているコートの事を尋ねた。
「え、夏音それどうしたの?」
「あ、うん何か貸してくれたの。それより里子、あの人の名前、なんて言うの?」
不思議そうな顔で里子は夏音を見やると、夏音の指差した方に目を向けた。
「え?・・・・あれ、4組の高遠君じゃない。高遠 暁。顔はちょっと怖いけど、実は顔が整ってて美形で名前が通ってて、もてるんだよ?しかも、雰囲気的に同じ学年って感じがしないから尚更って、もしかしてそのコート・・・・」
「タカトウ アキラ・・・・・」
その日から、夏音は握り締めたコートの温かさの主を見つめつづける事になる。
そして、見つめつづけるたびにコートを貸してくれた事はただの気まぐれではなかったのか、そう思うようになり今まで自惚れていた自分のおろかさをひた隠すようになり、だんだんと暁にコートを返す事が苦である事に気が付き始めていた。
コートを返しそびれて2週間が過ぎた。
コートについていた暁のコロン系の匂いは、とうとう夏音の部屋の匂いと同一化してしまい、彼の存在を薄くしていった。
受験シーズンに入って、だいたいの進路が決まり自由登校となった今、夏音は暁を学校で見ることは無く日にちが過ぎていった。
とうとう返せなくなってしまったと気が付いたのは、卒業式の日だった。
夏音はあの時借りたコートを今日は絶対に返そうといき込んで、オリエンテーションが終わった後すぐに暁のいる4組へと足を急がせた。
しかし、ことは上手くはいかなかった。
卒業式ということで、アルバムの裏に書くメッセージ。
最後だからと思い、度重なる告白タイム。
そのおかげで、夏音は暁にコートを返す事が出来なかった。
しかし、高校に入ってみて驚いたのが、思い人の暁が同じ学校だったということだった。
途中からの記憶だったが、確か中学の時の定期考査のテストの暁の順位は今通っているこの高校の2ランク上の高校を選んでも可笑しくは無かったはずだった。
それが、なぜ同じ学校だったのかと入学した時に感じたものだった。
「あの、高遠・・・・君」
ふと呟きのように聞こえる、夏音の声が暁の耳に止まる。
その手は最後の資料をしっかりとホッチキスで止め、綺麗に資料の段の上に置くと、その顔を夏音に向けた。
「何?」
「え、あ・・・・・のさ、私ずっと高遠君に言わなくちゃいけない事が合って・・・・」
「それで?」
「それでずっと、話しかけるタイミングとか掴めなくて、1年の時は違うクラスだったし、中学の時もクラス違ったし・・・・いいずらかったんだけど、」
「・・・」
「あの時はコート、ありがとうございました」
「・・・あの時?」
「うん、中3のときコート貸してくれたでしょ?」
「あぁ、あれね」
「えっと、あれから私ずっと持ってて、いつか返さなきゃって思ってたんだけど、結局2年過ぎちゃってて・・・」
「もう、いいよ。どうせ後で新しいの買ったし」
「え、ゴメン!!そうだよね、早く返せよって感じ・・・だよね」
会話が途切れ、緊迫した空気から少し時が経って突然聞こえた彼の溜め息。
夏音は不安になって、暁を見つめるとその目はなんだか宙を向いていて、とても落胆した色を見せていた。
「言わなくちゃいけない事って、それだけ?」
「え?うん」
「・・・・」
「どうか、した?」
「・・・・・なんか、ショック」
「え?」
暁は夏音に1歩近づくとその両頬に手をそえて、夏音の柔らかい唇に優しくキスを落とした。
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※Oh, mi Querido.=スペイン語で「ああ、愛しの人。」